寺報5号
御利益談

「母が御導師様のお慈悲で成仏の果報を頂く」

筆者 第一城西教区第三本鹿組 松崎靖子

ありがとうございます。

 私の家族は終戦後、満州から引揚げ、母方の実家のある日置郡の伊作に落ち着きました。父は、加世田に勤務していましたが、大阪の叔母夫婦の勧めで単身上阪しました。

 そんな中で昭和二十八、九年ごろ、母は本薫寺に入信させて頂いたのです。幼かった私は母の御奉公の様子はあまりよく憶えておりませんが、ただ昼となく夜となくお講参りやお助行に連れて行かれたことは憶えております。

 その後昭和三十四年、私たち母子も大阪の父のもとに行き、それからはどこのお寺にも所属することなく家族だけの御信心をさせて頂いておりました。私は縁あって、また鹿児島へ参りまして、御信心も今に至っております。

そして今から十年くらい前、母たちは茨木市に移転したのに伴い、近くの高槻の浄行寺に所属し、母なりの御信心を長らく続けておりました。

しかし近年、宗内他寺院の御信心が乱れていることを耳にするにつけ一日でも早く本薫寺の御信心、御本尊を頂かせてあげたいと切に思うようになりました。

そのような折、平成四年の夏、御導師様が宗門に対する折伏状として「本門仏立宗宗門にもの申す」の冊子を刊行なされました。それを読んだ主人は、これが母の本薫寺への所属替えのきっかけになればと思いコピーして送ってくれました。母は「このことは来年の二月に墓参りに帰鹿するのでその時御導師様とお目にかかって親しくお話しさせて頂きたい」と申しておりました。

 その矢先、平成五年一月十五日くも膜下出血で母が倒れたと知らされました。すぐ手術が行われ、私も飛んで行きたい心境でしたが、意識が戻るまで様子を見ることにしました。ところが意識が戻るどころか動いていた手足も動かなくなったと聞き、矢も盾もたまらなくなり、上阪することにいたしました。それにはただ見舞うだけではいけない、是が非でも母たちを元の本薫寺の信心に帰らさせて頂かないと母は御利益は頂けないと思いました。本薫寺の御本尊様の中での現証ならば寿命を頂けても頂けなくてもそれは立派な御利益だと思ったのです。また、もしも臨終ということになったとしても、いつも御導師様から拝聴いたしております成仏の姿を母に見させて頂きたい、それだけでした。なぜなら母の人生は大変苦労の多いものでした。二十歳になるかならないかのころ、母の長姉が幼な児を遺して病死したためその後添えとして随分と年の離れた父と結婚し私たち兄弟をもうけ、満州での生活、敗戦、引揚げ、戦後の混乱期を生き抜いてきた人です。ですから何としても成仏の果報を頂き、来世は寂光浄土参拝させてあげたいと思いました。

 それで私の所属する教区の定宣御講師様にご相談申しあげましたところ、早速関西地方担当でもあられる東京別院の清立御講師様に連絡をとって頂きました。二十三日朝、清立御講師様は「分かりました、早速御導師様のご指示を仰ぎます。結果をすぐ電話しますので待っていてください」とのことで、三十分くらい経ってからでしょうか、「十時の新幹線で奈良さん(東京組のご信者さん)と大阪へ向かいます」とおっしゃいました。私は、お忙しいスケジュールの清立御講師様ですのに、御導師様が母にお慈悲を賜われたと大変感激いたしました。私もすぐ飛行機に飛び乗り、二時に茨木駅で清立御講師様、奈良さんと落ち合いまして家に行きました。

 御講師様は二日間にわたって、本薫寺の御題目でなければ御利益は頂けないことをたくさんの現証談を交えてお折伏してくださいました。奈良さんも体験談を種々聞かせてくださいました。結果、長兄や姉たちが本薫寺の御本尊様を頂くことになり、二十四日無事に御本尊奉安させて頂きました。浄行寺へも御講師様がきちんと所属替えのお話をつけてくださり、早速お助行が始まりました。そのあと病院へも行ってくださり御講師様は母のベッドの枕元に懐中御本尊様を結わえて耳元で、本薫寺に戻らさせて頂けたこと、これまでの信心御奉公のお懴悔、当病平癒のご祈願助行を始めることなど一言一言かんで含ませるようにお話しくださいました。意識はなくても人の魂に届くのだそうです。そうして、御講師様と奈良さんは帰京されました。その後は家族だけのお助行が続きました。

 実はこの二十四日は、東京では初お講でしたのに御講師様がおいでになられないために、御導師様が急きょ鹿児島から一番機で上京され初お講をお勤めになったそうです。茨木にも東京からお電話をくださいまして「先祖のお回向のできていない方はいませんか、しっかりお回向してあげなさい。病院へ行ったらお母さんの耳元でゆっくり御題目を唱えてあげなさい」等々、大変やさしく細かいお心遣いをくださいました。

 一方、鹿児島では二十五日の夜から御導師様のご指示で定宣御講師様をはじめ私の所属する一城西教区挙げてのお助行が私宅で始められました。二十六日最終便で帰宅した私は厳寒の中、母とは面識のない皆様が一生懸命お看経をしてくださっている姿を見て涙が止まりませんでした。こん睡状態とはいえ母にこの御題目が届かないはずはないと私も一心不乱にお唱えしました。こうしてお助行が続きましたが、九日目の二月二日夕方、母は家族の見守る中でだれも気付かないくらいスーッと息を引き取ったとの連絡が入りました。その夜は私宅で御講師様はじめお助行にみえたご信者さん方が枕経をあげてくださいました。

 その後、茨木の姉からの電話で、「病院から帰った母のまわりに皆が集まりお数珠をかけてあげようとして手を組もうとするけれど、軟らかいため何度やっても手がずり落ちてしまう」と、遺体の軟らかさに皆がびっくりしている様子を話してくれました。それを聞いたとき私は「母は御利益頂いた!」と直感しました。

翌朝、定宣御講師様、同じ教区の木佐貫洋子義姉と主人、私とで上阪しました。家に着くと先に来ておられた清立御講師様が枕経をあげておられる最中で、その横に母の遺体が安置してありました。私たちも早速唱和させて頂きました。やがて枕経が終わり清立御講師様が「身体はくたくたですよ」とおっしゃいました。顔は色白で実に穏やかな優しい表情で手や足の指先に至るまで軟らかでした。まさしく成仏の姿です。常日ごろ拝聴する御法門どおりの姿でした。

 夕方、遺体搬送のため葬儀場の係の方が家に来られました。「きのうから丸一日経っているのに、亡くなったお母さんの布団が温かいよ!」驚いた姉が布団を片付けながら言いました。私もさわってみましたが、本当に温かでした。 その後、葬儀場で湯潅をされる際、次兄と主人が遺体確認のために立ち会いました。三十分ぐらい外で待たされた後部屋に入り、指を洗ってくださいと、おっしゃるので、二人で母の両手の指を洗いました。母があまりにも白く、軟らかく、生きている人の姿そのままだったからでしょうか、湯潅をされた六十年配の係の方が、「二十四時間経っているけれど、この方は本当に亡くなっているのですか?」と怪訝そうに聞かれるのです。普通、このようなことは聞かれることはないと思うので次兄と主人も半ばびっくりした思いで「はい、間違いありません」と答えました。この次兄は日ごろから御信心には関心がないのですが、母のくたくたの姿には本当にびっくりしておりました。

 このように御導師様のお慈悲とお徳を頂いた母が皆様方の御題目口唱の中で臨終、成仏の果報を頂戴できたのです。

その夜の通夜、四日の告別式も晴天に恵まれ暖かい日和の中で滞りなくとり行うことができました。

御導師様はじめ清立御講師様、定宣御講師様、奈良さん、一城西教区の皆様、本当にありがとうございました。心の底から感謝の気持ちでいっぱいです。この喜びを肝に銘じて御恩報じの御信心御奉公に励まさせて頂きたいと思います。ありがとうございました。          

                                                                                                                                                                                                                                        
                                                                                      合掌