植田日因(淳明)
沖縄の仏立寺がホームページを開設し登録するということであるので、仏立寺建立当時のことを思い起こし、記してみる。
昭和29年、私は鹿児島から沖縄を訪れた。当時は1200トン級の船が就航していた。鹿児島の錦江湾内から外洋に出ると、途端に揺れ出すという代物である、船酔いで吐きながら沖縄那覇港に着いた。沖合いの船から見える島の景色は、海辺は水面下の珊瑚礁で七色に彩られ、陸には赤瓦の家々が密集し、紺碧の空とコントラストをなして、その見事な自然の造型には、ただただ見取れたとしか言いようがなかった。
陸に上がれば、アメリカ軍政下の基地経済のにぎわいであろう、那覇市中央の商店街は少しの間口でもと隣と突っ張りあうように店を張り、道路挟んだ空き地には、それぞれ手製の沖縄そば、ゆし豆腐を竹ザルに山盛りにして、莚にあぐらをかいた婆さん連がずらりと密着し並んで、それぞれ売り声の叫びをあげ熱気溢れる市場が、人々の自然な集まりの場として作られていた。
然しつぶさに、店店人々の売り物を見てみると、アメリカに一応の国籍を持つ故であろう、宝石類の貴金属、外国製の時計その他は、日本本土では考えられない安値であり、生活上欠かせない必需品衣食住、特に食に就いては、また考えられない高値であった。当時日本本土では、ネギ一本、二、三円か、高くて四、五円のものが、一本七十円という物価指数である。 何となく沖縄の隙間風を垣間感じた。
本来、私が沖縄を訪問した目的は第二次世界大戦で、全員玉砕とさえ報ぜられた戦場で、悲憤の涙を呑んで亡くなった彼我のあまたの霊を弔いたいという気持が強かった。私は、先ず生き残った信者を見舞った。私が訪れたことは皆久しぶりの親に逢えたように慕い依って、涙を流して戦時中恐怖におののきながら逃げ惑った生ま生ましい話をしてくれた、死んだ者生残った者、言語に絶する悲惨さである。後代まで語りべに伝えなければならない事柄ではあるが、事実生死の極限に達した境地は、その人達のみの心の境地で、語り伝えるすべも無いのではないかと思った。
然しよく来てくれたと、初対面でも、家族総出で,子どもまで沖縄踊りを踊って歓迎してくれるところがあり、沖縄の人情味に暖かく包まれる思いがした。色々の人を紹介されお逢いした。
そしてそれらの人々を通じて表面はきらびやかそうに見える沖縄も、裏面には悲哀のあるのをを知った。浮浪児が米軍基地に忍び込んで盗みをするとか、戦前礼節の邦の誇りがあった島が、金のため親子でもみにくい争いをする様相が現れ、今まで無かった泥棒、強盗事件さえ起こり、社会的不安が増長しているということである。それから心ある者と話し合い布教し一寺を建立することを決意した
私が沖縄に布教し一寺建立を志していることを聞き出して、琉球新報、沖縄タイムス、沖縄日報の記者たちが会見を申し込んできた。その理由が、戦後、ある新興宗教が布教して祈り殺したとかで社会問題になった、その後に私の到来だということである、それで多少私の布教に、疑義を持っての会見という風である。私は、その時このように言った。
『私が沖縄を訪問したのは、彼我の戦没戦災死者の霊を弔うためでもありますが、沖縄に来て感じたことは、沖縄は広い果てし無い広場に立って両面からスポットライトを当てられ、それに眼が奪われ自分自身の影を見失っている姿のように見えます。
国籍はアメリカにあり、潜在的主権は日本にあるという不明瞭な立場です。経済も基地経済が主であり、基地に土地を貸した者が、基地からの賃借料を貰い、アメリカ製品の貴金属などを仕入れ観光客相手、基地相手の商売などをして、花やかそうに見えますが、軍政の都合で、軍政下のもとにある琉球銀行が貸し出しを控えれば、途端に商売人に響く、軍政のごきげんが良ければ,どんどん貸し出しが行われ、商売もうまくゆく、アメリカ軍政次第の経済といえます。
沖縄自体で成り立っている産業といえば、ほんの僅かな漁業と農業、アメリカ基地経済で金金金の世だと謳歌している者があれば、職も思うようになく生活食料品のべらぼうな高さで、今日を食い兼ねている人も多い、政治意識は高いが、アメリカに付こうというのが三分の一、日本に帰りたいというのが三分の一、ソビエトに付こうというのが三分の一、宗教も沖縄従来からの,ノロ、 ユタの霊媒によるお告げ信仰が主です。何もかも相手から動かされ操られ、沖縄自分自体のものが何も無い、私は沖縄に来てそれを知りました』
このように話すと記者たちも、全くだ“と、同意を示した。
そして、『それと貴方の布教と、どう関係がありますか』という質問である。
私は『お釈迦さんは、五十年余りご説法なさった一番最後に法華経を説かれています。お釈迦さんのお悟りは法華経であり、その法華経を現わされるための御一代の御説法だったのです。
その法華経に、こういうお話があります。
ある大きな屋敷を構えた慈悲深い長者がおりまして、ある時、屋敷から外を見ていたら、一人の放浪しているみすぼらしい乞食が通りました。それはもと、その長者の親友です。長者は驚いて、その乞食の親友を呼んで屋敷に入れました。そして大層なご馳走をして食べさしました。乞食は久しぶりにありついた食べ物ですので、がむしゃらに貪りつき食べました。満腹すると、そこにゴロリと横になり寝てしまいました。長者は公用で、どうしても出かけなければなりません。それでその寝姿を見て、これからも苦労することだろうと思い、その男の着物の襟の裏に、無価の宝珠という値段のつけようのない値打ちのある宝の珠を縫い付けてやりました。何時か気が付いて、それを使い幸せになるだろうと、出てゆきました。乞食は長者が出ていったというので家族に挨拶をして、再び放浪の旅に出てゆきました。
それから歳月が過ぎました。再びこの乞食が長者の屋敷を訪ねて来ました。長者が、その姿を見ますと、前より痩せおとろえ、着物もぼろぼろです。長者は驚いて、「お前には宝の珠をやったが、それを使えば幸せになっている筈だのに、その姿はどうしたことか」と、言うと、乞食は「そのような物は貰った覚えが無い」という,それで長者が、“どれ”と、乞食の着物の襟の裏をめくってみると相変わらず付けていたということす。
これは、襟繋珠(えりけいじゅ)という仏さんの話された、たとえ話ですが、人はこのようであるということです。人は目先のみにとらわれ、自分の内面、心の底に素晴らしい宝の珠があることを知らない、それは妙法蓮華経という仏性、仏のこころであり、慈悲心菩薩のこころです。如意宝珠、思いのままになる宝の珠でもあるというのです。また、それが真の人の本心だといわれています。
私がこのお話しをしたのは、この仏さまのお話から、失礼ですが、丁度沖縄がこのお話しのこの乞食のようで、今日々々目先のことだけで周囲に眼が奪われ、ただ周囲から動かされているだけで、自分自体のものが何も無いように見えます。
極端かも知れませんが、社会生活上仕方がありませんから、アメリカが来れば、アメリカの旗を降らなければならないでしょう。日本が来れば、日本の旗を降りなさい、ソビエトが来ればソビエトの旗を降らなければなりますまい、
然し沖縄、そして沖縄の人、自分自身のものとして、これが有るんだというものがなければなりません。有ります。自分自身の内面に自分自身のものとしての素晴らしい価値のものが有るということです。これに皆気がつかなければなりません。
それに気がつかせ、それを心の底から表面化させ現わせる法として、法華経の本門で、久遠の釈尊という永遠の一切の仏の根本、全体仏を現されたお釈迦さんが本門八品上行所伝の妙法を私たちに授けておられるのです。
この本門八品上行所伝の妙法蓮華経は仏のお悟りのお心でもあれば、私たちの心の奥底に潜んでいる仏心、菩薩の心、妙法蓮華経と一体のものです。然しダイヤモンドに譬えれば店頭にある光り輝くダイヤモンドと山の底にある原石のダイヤモンドの相違はあります。原石は何の光りを現しません。偉大な御経力のある光り輝く上行所伝の妙法を戴き、ご信心するところに、私たちの心の底の原石、妙法蓮華経が光りを現し表面化してくるのです。そこに現世成仏といい、現在仏になってゆくのです。
単に偶像の仏さんを拝むとか、神さんを拝むというのでなく、自分自身仏に成ってゆく信心です。その修行は菩薩行という人を救う慈悲行の修行です。そこに人も救われ、我も不思議な経力御利益が現れ、生活も心も環境も変わり、真の平和な世界が現れるというご信心です。
そして、現在から仏の世界に入ってゆくというのですから、このご信者の臨終は死ぬことでなく、はっと眼が覚めれば、そこは寂光浄土仏の世界だったと分からして戴けるというのです。勿論先祖の霊も浮かばれます。
私は、人として沖縄人として他の周囲から左右されるもので無く、真の自分自体に目覚め、仏の道と一体になった素晴らしい道を開いてゆく信仰を与えようと思います。言い遅れましたが、戦時中このご法の不思議な御利益で一家一族助かったお話をあちらこちらで聞かされました。 こういう法、御信心を広めます』
新聞記者たちは『それは仏教だ、沖縄は仏教国だから応援します』と、全面的に賛同してくれた。
その後、沖縄に戦後最初の寺の建立がなされたが、建立に当たっては、当時アメリカ軍政下であり、沖縄は当間主席の政権のもと一国的な形態をなし、日本政府も戦後間のないことで、建築資材の送付等に関して何ら法的条令もなく、非常に難しい面があったが両国に陳情等あらゆる手段を講じて成し遂げた。
詳しくは沖縄仏立寺ホームページの仏立寺の概要にリンクされたし。